速報

歴史上一番「くだらないミスで被害甚大」感ある出来事は?

1: 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2023/02/02(木) 18:21:32.705 ID:YGLPa78f00202
難しいな

3: 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2023/02/02(木) 18:23:02.600 ID:K+rePSak00202
急にボールが来たので

4: 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2023/02/02(木) 18:23:13.321 ID:dn9wvPy000202
応仁の乱

足利義政の8代将軍就任

鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は脆弱で、三管領(細川氏、斯波氏、畠山氏)など宿老の影響力が強かった。それは宿老や守護大名も例外ではなく、領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。こうした環境が、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。幕府は、4代将軍足利義持の弟で、籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教が専制政治を敷き、守護大名を抑えつけて将軍の権力を強化したが、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に暗殺されてしまう。この混乱を収束させたのは管領細川持之と畠山持国であった。しかし、嘉吉2年(1442年)細川持之は隠居し翌年死去、7代将軍となった義教の嫡子である9歳の義勝も就任1年足らずで急逝した。義勝の同母弟である8歳の足利義政が、管領に就任していた畠山持国邸における衆議により次期将軍に選ばれ、文安6年(1449年)に正式に将軍職を継承した。

応仁の乱 – wikipedia

54: 以下、5ちゃんねるからVIPがお送りします 2023/02/02(木) 19:11:01.838 ID:xMr8ouk6a0202
>>4
出てた

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Source: 暇人\(^o^)/速報 – ライブドアブログ